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黒田官兵衛と光

2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公黒田官兵衛は姫路出身とされ、加古川とのゆかりも深く、官兵衛の妻は加古川市北部にあった志方城主の娘「光(てる)」でした。
戦の天才として知られた官兵衛は、側室を持たず、「光」は官兵衛の生涯ただ一人の妻でした。
また、官兵衛の有力家臣にはこの地で生まれた武将も名を連ねており、ゆかりの地も随所に残されています。どうぞ播磨の地にお越しください。

官兵衛ゆかりの地

観音寺(志方城跡)
現在の観音寺境内を本丸とし、内堀の周囲に二の丸、西の丸があるかなりの規模の城だったと考えられており、付近一帯は志方城跡です。
この城の城主・櫛橋家は伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣でした。伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ文明13年(1481年)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492年)この地に志方城を築いたといわれています。
以来、伊家、伊定、政伊と父子四代続き、天正6年(1578年)羽柴秀吉の攻略にあって落城しました。
伊定の娘、光(てる/幸圓・こうえん)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の生涯ただ一人の妻でした。結婚した翌年に生まれたのが後の福岡藩主・黒田長政です。
現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15年(1587年)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るため、城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
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安楽寺
城山(中道子山)のふもとにある浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
もとは真言宗の寺院で、弘法大師の弟子、真紹上人の開山で、山頂に無量寿院を創建した(811年)のに始まり、本光山中道寺と改号し、長い間山頂にありましたが、赤松氏が城を築く際、山麓に移されました(1380年)。
赤松氏の没落後、城主櫛橋(くしはし)氏によって浄土宗寺院として再建されました。白い塀が長く続いているのが印象的で、春には見事な桜も楽しめます。
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志方の城山(中道子山城)
志方町の東の端に位置し、中世の城跡があります。
室町時代に赤松一族が築き、約170年間続いた東播磨で有数の城跡です。
軍用金埋蔵にまつわる歌や、敵の侵入を防ぐ目的で山腹に竹の皮を敷き詰めたが火を放たれ、兵糧米をまいて鎮火に努めたものの、落城に至ったという伝説が残っています。
登山道は整備され、頂上からは北に七ッ池、東に権現ダム、西に高御位山、南は播磨灘まで見渡せる絶景です。
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長楽寺
浄土宗の寺院で、和銅6年(713年)慈心上人の開基です。
高倉天皇が中宮建礼門院の安産を念じ、丹波老の坂の地蔵尊に祈願したところ、いとも簡単に玉のような皇子を拾いあげたことから、平清盛に命じて、全国六十余州の国々に一体ずつ安置させたものが、本尊の「木造地蔵菩薩半跏像(重要文化財)」です。
秀吉の播磨攻めの時、長楽寺の伽藍は焼失してしまいましたが、住職が本尊の「木造地蔵菩薩半跏像」を抱いて身を隠し、兵火から守ったといわれています。
「谷の子安地蔵」として安産祈願に訪れる人が絶えません。春の桜と秋の紅葉も見事です。
平成23年の「台風12号」により甚大な被害を被りましたが、本尊は無事でした。
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円照寺
境内の梵鐘は、秀吉が中国平定の戦いで山口県の上野八幡宮の鐘を陣鐘として使い、帰京の際にこの地に置いていったものといわれています。、周防国富田保 上野八幡宮 明応七年…」の銘が刻まれており、市指定文化財となっています。
円照寺は、花の寺として知られ、3月から11月にかけてクリスマスローズ、ユキヤナギ、椿、ライラック、アジサイ、ノウゼンカズラ、酔芙蓉などさまざまな花が咲き乱れます。
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称名寺(加古川城跡)
寺の付近一帯は加古川城跡です。天正5年(1577年)加古川城で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われました。また、糟屋(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍し、賎ヶ嶽七本槍(しちほんやり)で武名をあげました。
境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。秋には境内の大銀杏が鮮やかに色づきます。
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野口神社(野口城)
秀吉の播磨攻めの際、黒田官兵衛の指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦いました。
野口城は現在の五社宮(野口神社)付近にあったといわれています。
旧西国街道沿いにある五社宮(野口神社)の東南角には、古い道標が立っています。長い年月で風化した石柱には「東、大野村在…西、廿五(25)丁…南、式内日岡神社」と刻まれており、時の重みを感じさせてくれます。 また、神社の西にある教信寺は延暦寺の末寺であることから深いつながりがあります。
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教信寺
平安時代前期の僧・沙弥教信が庵をつくり、庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが教信寺です。
秀吉の播磨攻めの時、寺の東側にあった野口城では、教信寺の僧兵と野口城兵が秀吉軍相手に戦いましたが、奮戦やむなく落城しました。
野口城の位置については、近世の山陽道の北側にあったという説と南側にあったという説があります。境内の左手奥に教信上人廟があり、春には桜が彩ります。
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日光山常楽寺
大化5年(649年)に法道仙人の開基といわれている真言宗の寺院です。
秀吉の播磨攻めの時、堂塔伽藍全てを焼失し、延宝6年(1678年)に再建されました。境内には、鎌倉時代に造られた花崗岩製の九重塔、凝灰岩製の三重塔、室町時代に造られたと思われる凝灰岩(竜山石)製の五輪塔などの石造遺品がたくさんあり、春には、みやまつつじが美しく咲き誇ります。
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常楽寺(神吉城跡)
神吉城主・神吉民部大輔頼定は天正6年(1578年)の秀吉の播磨攻めの時、約三万の大軍の包囲に対して、わずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと伝えられています。しかし、度重なる攻撃に頼定をはじめとする城兵は討死し、ついに落城しました。
一説には黒田官兵衛の養女が頼定の妻といわれており、常楽寺の裏手には、勇猛を誇った頼定のお墓があります。
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太閤岩
加古川市西神吉町辻の北側の岩山にある岩です。
秀吉が志方城を攻めた時、ここに本陣を置き、この岩に腰をおろして軍兵の采配をとっていたと言い伝えられています。この太閤岩からの眺望は素晴らしく、高砂の海、加古川全域、明石海峡大橋や淡路島、そして志方町方面を一望できます。
高砂神社(高砂城跡)

正確な起源は不明ですが、『高砂市史・高砂町市史』によると、梶原氏が治める城として天文7年(1538年)に登場しています。
高砂城が「海城」として改めて登場したのが天正6年(1578年)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃からです。三木城主、別所長治の有力武将であった高砂城主、梶原平三郎衛景秀は、世に言われる『三木の干殺し』に対して、最後まで兵糧の供給基地として播磨灘の海上を押さえていました。そこで、秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始、寄せ手は一千騎で攻め寄せましたが、景秀は三百余騎で、毛利の援軍の甲斐もあって見事打ち破りました。しかし、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、あえなく落城の憂き目となりました。
立葵の紋を持つ山門をくぐると、左手に「池田輝政公高砂城趾」の石碑が建てられています。神社境内の隅に石材が無造作に積み上げられており、その中に矢穴を持つものが含まれています。
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野寺山高薗寺
天正8年(1580年)羽柴秀吉の三木攻めにあい、別所方に付いたため、すべて焼かれました。
戦いの後、焼け跡に草堂が建てられ、江戸時代には姫路城主の池田輝政らは、由緒ある寺をしのんで境内などを寄進しました。
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官兵衛伝承

黒田官兵衛の母ゆかり
「播磨鑑」の中に、黒田官兵衛の母が中世明石地方で勢力を張っていた明石氏の出身との記載があり、黒田官兵衛は押部庄黒田村(現:神戸市西区平野町黒田)の生まれとする説もありますが、この地は現在の明石市内ではありません。
加古川評定
天正6年(1578年)2月下旬、織田信長の家臣羽柴秀吉は、中国地方の覇者毛利氏平定のため播磨国に下向し、糟屋(加須屋)氏の加古川城(現在は称名寺)に諸城主を集め、加古川評定いました。ところが、その直後、三木城主別所長治が毛利氏と結び織田氏に反旗を翻し、加古川周辺の諸城の多くも別所氏に従いました。
野口城の戦い
天正6年(1578年)4月3日、秀吉軍が野口城(野口町)を攻撃しました。
城主長井政重は鉄砲や弓でよく防ぎましたが、秀吉軍は刈り取った草木で城の周囲の沼田を埋め、3日間激しく攻め落城させました。
神吉城の戦い
天正6年(1578年)6月27日、織田信長の長男信忠が率いる30,000余人の軍勢が神吉城(現在は常楽寺)に攻め寄せました。
城方は城主神吉頼定や梶原冬庵ら1,800余人が迎え撃ちました。信忠軍は竹束で鉄砲や矢を防ぎ、堀を埋め築山を築き、城楼(せいろう)から大鉄砲を撃ち込み、激しく攻撃しました。20日近い籠城の後、7月15日夜から16日にかけ、滝川一益や丹羽長秀に東の丸、中の丸に攻め込まれ、頼定が討たれ天主は焼け落ち落城しました。
※1,000余騎、1,700余騎と様々に伝えられています。
志方城の戦い
神吉城の戦いから続いて行われた志方城(現在は観音寺)の戦いには諸説があります。
「信長公記」には、神吉城の落城後、織田軍が総勢で攻めかかったので、ここも守りきれないとみて降参し、人質を出して城を明渡したことが記されています。
一方、「志方町誌」によると、志方城は城主櫛橋伊定(黒田官兵衛の妻光姫の父)をはじめ城兵1,000余人で、何度か城門を開いて切って出ましたが、衆寡敵せず死者が増すばかりであり、そのうえ城兵の過半数は赤痢に倒れて武器を取る力もなく、今はこれまでと降伏したと記されています。
※城主は櫛橋政伊であったとの説もあります。
別府(阿閇)城の戦い(加古川市・播磨町)
天正6年(1578年)4月1日、織田方の別所重棟が守る別府(阿閇)城に毛利軍が攻め寄せましたが、秀吉の命により、黒田官兵衛が応援に駆け付け撃退しました。
※現在、別府(阿閇)城の場所は不明です。
秀吉との出会いの場
羽柴秀吉が黒田官兵衛に頼まれ姫路に乗り込んでくるときに、秀吉を出迎えるために待っていた場所が、阿弥陀ヶ宿(高砂市阿弥陀町)であったという説があります。
生石神社の梵鐘
羽柴秀吉が神吉城を攻める際に生石神社を陣所として貸与せよとの申出をしたところ、時の宮司は神吉城主・神吉頼定の弟であったため、兄の城を攻めるための陣所は貸さぬと拒否しました。そのため秀吉の怒りに触れて焼き討ちにあい、神社は一瞬にして灰と化したと言われています。
焼け残った梵鐘は持ち去られ、後日関ヶ原の戦いの際に西軍石田三成の勇将大谷吉隆の陣鐘として使用されました。
その後、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄付し、現在、大垣市の指定文化財として保存されています。鐘の表面には「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻印されています。
高砂城の戦い
播磨の諸勢力は、元々西の大国「毛利」氏と、畿内を制した「織田」氏の両方と友好関係を結んでおり、毛利、織田も播磨を中立地帯として友好を保っていましたが、信長に京都から追放された足利義昭などの要請により「毛利」氏は反織田に踏み切りました。
一時、播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入りましたが、天正5年(1577年)、加古川城で行われた秀吉と別所吉親との会談で生じた不和をきっかけに、三木城主別所長治が離反し毛利側に付きました。これにより別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力が同調し毛利方につき、東播磨をとりまく情勢が一変していきます。
秀吉・官兵衛の軍により野口城、神吉城、志方城、などが次々と落され、加古川・高砂地域に残されたのは高砂城だけとなってしまいます。
東播磨地域の本丸三木城を兵糧攻めにしようと考えていた秀吉は「高砂城がじゃまになる」と考え、兵糧が三木に行かないよう、海上を封鎖し高砂城を攻めたのです。しかし、高砂城主梶原景秀は三木の別所氏と元々親密な味方で、ひそかに連絡をとり加古川を登り兵糧を三木城へ運びこむ準備をしていました。
そうとは知らず高砂城に火をつけた秀吉軍は、梶原氏と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られました。
勝利した毛利軍は、本国へ帰り兵糧をととのえ、三木城へ運送するよう考え、帰国してしまいます。
この知らせを聞いた秀吉は、さっそく番船をおいて、毛利軍の通路を断ち切り、三たび高砂城を攻めます。高砂城は毛利軍が帰国したばかりで余力はなく、敗北してしまったのです。
高砂城主梶原景秀は、長い籠城は望めないと判断し、一族を三木城へ行かせ、自分は髪をそり、鶴林寺にこもったといいます。
また、景秀は天正7(1579年)年7月の段階では三木・別所氏に属していましたが、同年10月黒田官兵衛の紹介により秀吉側に帰順しています。
落城坂(くそたれ坂)

稲美町草谷に「落城坂」という名のついた小さな坂があり、別名「くそたれ坂」とも言います。
三木城に味方する野口城、神吉城、志方城が秀吉の攻めにより落城した後、秀吉から兵糧攻めを受けていた三木城に向かっていた毛利の援軍は「三木城が落城した」という知らせをこの坂のあたりで聞いて引き返したという話が伝わります。
地蔵堂の先に坂があります。坂の傍には「右ありま 左みき」と記された古い石の道標があります。
母里太兵衛の母方先祖の地
播磨国妻鹿の国人曽我一信の二男に母里友信、通称母里太兵衛がいました。
曽我氏は小寺氏の配下で黒田職隆の付家老をつとめていました。その関係で、母里は黒田氏の家臣となり、黒田勘兵衛孝高・長政親子2代に仕え、黒田二十四騎とも黒田八虎(はっこ)とも呼ばれその武勇が称えられています。
母里は母方の姓で、加古郡稲美町母里が本貫地とされていますが、尼子氏の庶流で出雲国母里(安来市伯太町)が出自という説もあります。
槍術の武将として知られ、「黒田節」に謡われる名槍「日本丸」を福島正則から酒を飲み干した約束で譲りうけた逸話で知られています。
天満神社 大蛇伝説
天正8年(1580年)の頃、羽柴秀吉が三木別所氏を攻めた時、播州一円の城、寺社を打ち壊し回りました。この天満神社社殿をも取潰しにかかった時、社殿の傍らの神木から社殿の上へ大蛇が顔を出したといいます。
秀吉がこれを見て「捨て置け、捨て置け」と二言言いつけたので、社殿は取潰しを免れました。現在、本殿裏側塀に近く二本の杉の巨木が残っていますが、これがその大蛇のいた神木であろうと伝えられています。
武功夜話(ぶこうやわ)
戦国武将加藤光泰が、三木城攻めに際し、蛸草で武功をあげました。
※武功夜話とは、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種です。ただし、偽書説を唱える研究者も存在し、成立年代や史料的価値には諸説あります。

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